高照神社

高照神社
高照神社は現青森県の弘前、弘前藩中興の祖である四代藩主信政を祀る廟を建てることに始まる。
信政は宝永7年(1710)弘前で死去し、遺命により五代信寿が吉川神道に基づいて高岡の地に神葬した。明治に至って同10年に初代藩主為信を合祀している。
社殿に就いては、五代信寿が正徳元年(1711)に廟所、同2年に社殿群を建てて社頭景観を整えた。
その後も七代信寧が宝暦5年(1755)に拝殿を造り替え、九代寧親が文化7年(1810)に随神門、同12年(1815)に廟所門を建てた。
と、いう具合にまずは藩主の墓所を建て、そこから東に向かって社殿群が作られていき、その後も歴代の藩主によって造営されているのがわかります。
立地が弘前市内から離れて岩木山の山麓、岩木山神社のすぐ手前、本当にすぐ手前で並ぶようにしてあります。
参道横には初代弘前藩主からの歴史や宝物などが収められている出来たばかりの綺麗な資料館もあります。
という旅行に行く前に調べた情報を見て、江戸時代からの弘前藩にとってそれ以前からある古いお山信仰、岩木山信仰と並んで広く弘前の人々から信仰を集めている神社なのだろうと思って訪れたのですが、これが行ってみたら驚きの連続でした。
なんせ、どこを見てもボロッボロ!
冗談ではなくボロッボロ!
参道の掃除と手入れはされているようですが、建物はどれもが廃墟のレベルです。
屋根が崩れていたり抜けていたり、崩れたのであろう建物の部材などが無造作に残った建物に突っ込まれていたり。
豪雪地帯であるのがよくわかるのが雪によって上からの圧力が加わる部分の損傷が多く、建物の屋根が残っていても歪んでいたり。
また、風雪によって壁や戸板なども痛みが激しい状態でした。
最初の鳥居を抜けてすぐ左手に建てられたばかりの鉄筋コンクリート作りの弘前藩資料館の真新しさとあまりにも違いすぎて異様な感じがする。
「弘前藩」の資料館が新しく建てられ歴代の藩主たちが眠る場所だから手厚く祀られてきたはず⋯
弘前市内ではなく離れた場所にあり、歴代藩主の墓所である高照神社にそれなりの予算をかけて建てた資料館は決してこの神社の歩みと無関係ではなく、市内の中心に位置する弘前城の中に作られなかったのにも意味があるはず。
残念ながら訪れた日は資料館が休館していて中を見学することはできませんでしたが、初代藩主が豊臣秀吉から拝領したという宝剣をはじめ、江戸時代の歴代藩主が所有していた宝物が収められているという。
なんかしっくりこないなぁ⋯
弘前城の敷地内にあった弘前市立博物館は縄文時代からの遺物など興味深い物が展示されていて、アイヌと倭人が同時期に居たであろう伝統的な織物に独特な柄が編み込まれている衣装などが展示されていて、見学の人もそれなりの数がいたし、常に人が入っているのだろうなと感じさせられた。
また併設で「弘前ねぷた」の資料館が繋がっていた。
この「弘前ねぷた」を手厚く保護し奨励したのが高照神社の元になる「4代藩主津軽信政」であるのだから、それなりに弘前市としてもこの神社が大切な場所であると考えている、また、弘前市民も同じく考えているのだろうと思って立ち寄ったのだけれど、この状況はなんなのだ?
廃れ方が尋常でない!
私が訪れた時には着いてから帰るまで私一人しかいなくて、他の時間帯や他の日にも人が訪れた気配が無い。
駐車場には数台の車が停まっていたけど、様子から旧宝物庫を解体する業者さんの車のようだった。
とにかく建物を1つ通り過ぎるたびに
「うわ〜⋯」
と声が漏れて出てしまうほどの荒れ放題っぷり。
参道の掃除はされているので足元はそう感じませんが、まるで山の奥にある廃村に迷い込んだような雰囲気。
ただ、杉並木や杉林は立派で創建された往時はかなり力を入れて作ったはず。
それと鳥居をくぐってからずっと本殿の方から感じる強めのプレッシャー。
それは進むにつれて強くなっていく。
参道の突き当たりに石段と門がある。
石段を上って門の両側には右大臣と左大臣が見えた。
「左大臣は若いな⋯」
と思いながら門をくぐって振り返ると両大臣の裏側のスペースには無造作に廃材が詰め込まれている。
またも「うわぁ〜⋯」
本当にどういうことなのか頭が混乱する。
歴史があり藩政時代は間違いなく整備が行き届いていたはずであろう場所なのだが。
位置的には神の山である岩木山の麓にあり、古くから信仰されている岩木山神社のすぐ隣にある。
江戸時代の藩主たちの墓所であり代々の藩主から手厚く保護と加護を受けていたはず。
それが一体なぜ?
とにかく目の前の拝殿へと向かう。
ふと上に目をやると拝殿の屋根が歪んでいる。
「ここもか⋯」
よく見るとふき屋根がところどころめくれ上がっている。
雨漏りしてることだろうな。
拝殿の戸は空いていた。
賽銭をあげようと石段を上がると中の様子が見れそうなので賽銭箱を越えて扉の中に顔を入れると鏡や面、絵馬のような額付きの絵が飾られていて天井などにも装飾が施されています。
戻って賽銭箱に賽銭をあげようとした時にふと空いている扉に目をやると衝撃的な言葉が書かれた張り紙が。
「 高照神社がなくなる前に」
張り紙の大きく書かれた文字を見て「えっ?」と思った。
無くなる?
張り紙には集落の高齢化に伴い人的にも財政的にも神社の維持が厳しくなっているので「守人として登録して一緒に高照神社を維持できるようにしていきましょう」
といった内容が書かれていた。
存続の危機じゃん!
その紙には冬に拝殿などの建物の屋根に明らかに重量オーバーの雪が積もっている写真や壊れた箇所の写真などが載っていた。
確かにこれを近隣集落の人々で維持していくのは困難だろう。
拝殿から横に回り本殿を確認する。
拝殿よりは損傷の程度はまだマシではあったが雪の重さで屋根が崩れないようにするためか、本殿の屋根の四隅には支えの柱が備え付けられていた。
明らかな応急処置で、こんなの初めて見た。
門から拝殿、本殿は創建時から少なくとも江戸時代までは輝くような朱色で壮麗だったに違いない。
現在では、そうだったのだろうなと想像を働かせるしかない状態になっている。
さて、本殿の奥に弘前藩中興の祖である津軽信政公をはじめ歴代の藩主が眠る霊廟を訪ねることにする。
本殿を右から回って行くと本当に真後ろに道が続いていく。
本殿を過ぎた辺りで、さっきから感じているプレッシャーも1段階上がったように感じる。
鳥居から門、拝殿から本殿を結んだ延長に霊廟へと続く幅の細い石畳が現れた。
距離は200mくらいだろうか。
突き当たりには霊廟の門が見える。
柔らかい光に包まれ、とても神気に満ちていて杉並木に囲まれた石畳。
吸い込まれるように足が動く。
石畳に入って2〜3mほど進んだところで
「キーン⋯」
という耳鳴りがして騒がしかった虫の鳴き声が消えた。
風も無い。
歩き続けると自分の足音しか聞こえなくなっていた。
杉並木と石畳が終わり霊廟の門の前にある広場に出る。
林の中に、そこだけ空が大きく広がる空間に少し霞がかったような柔らかい光が充満していた。
霊廟の門は石段を上ったところにあり格子から中を見るには石段を上がらなければならないのだが、その石段まで行こうと広場の中心あたりまで進むとまた
「キーン⋯」
という耳鳴りがして今度は虫の鳴き声や木々の葉が擦れる音が一斉に頭の中で鳴り響き、頭の中で渦を巻くようだ。
「ぐわっ!」
両耳を押さえて上半身を屈ませる。
こりゃキツイ!
霊廟の門を見るとさっきの霞がかった光ではなく夏のキツイ陽射しに門が影のように暗く見える。
逆に杉並木と石畳の方は林の中に一本の明るい光の流れがあるように見えた。
帰れってことか⋯
ここは信政公たちの意向に背いてはならんかと素直に反転して、また杉並木に入り石畳を戻って行く。
こう言うと聞こえはいいが、実際には相当ビビっておりました!ハイ!
この時点で心臓バクバクでしたね!
石畳の上ではまたも足音以外は無音になり、石畳が終わり神社本殿の後ろまで戻ると虫の音も風も戻ってきた。
やれやれ、一体何だったのか。
回り込んで拝殿前に戻り、参道を駐車場まで戻る。
途中、さっきは気付かなかったが拝殿前に折れた鳥居の柱が参道の両側にあった。
地面から4〜50cmほどだろうか、テープと黒い布でぐるぐる巻きになっていたが、撤去されずにそのまま残されていた。
根本が腐って折れたのだろうが、参道をふさぐ上の部分は撤去されたが根本がそのまま残っているというのもどうなのだろう。
兎にも角にも謎ばかりで、このすぐ後に行った距離にして数100mしか離れていない岩木山神社とのあまりの違いに戸惑うばかりだった。
「土地の神」はその象徴がある限り、いや、人の中に信仰がある限りその価値は変わらずに人々の中に存在し続けるのだろう。
時代の権力者というのは、その役割が終わると信仰の対象にはならず過去のものとなり、自然に飲み込まれて自然に還っていくのかもしれない。
高照神社は静かに森に飲み込まれて自然に還る途中だったのだろうか。
見物気分で訪れた私を
「静かにさせてくれ」
と拒否したのだとすれば納得しよう。
けれど、それではそれなりの予算をかけて建てたであろう資料館の存在が理解できない!
弘前城の敷地内にあるのならわかるが、なぜ?高照神社に建てたのか?
わからないことだらけの高照神社であった。



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